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金の歴史を徹底解説!世界と日本の金事情を押さえておこう

金の歴史を徹底解説!世界と日本の金事情を押さえておこう

私たちの生活に欠かせない存在となっている金は、いつ頃誕生してこれまでどのように用いられてきたのでしょうか?金投資を始める前に、金の歴史について知っておきましょう。

そこでこの記事では、金投資を始める前に知っておきたい金の歴史について解説します。
金の歴史を知ることで、現在用いられている金相場がどのように誕生したのかを知ることができるでしょう。

押さえておこう!世界の金の歴史について

押さえておこう!世界の金の歴史について

金は古くから世界中で特別な金属として扱われてきました。では、金は一体いつ頃発見され、どのように活用されてきたのでしょうか。
こちらでは、世界の金の歴史を「シュメール文明」「トラキア文明」「古代エジプト文明」の3つの文明に分けて解説します。

シュメール文明

現在、金の最も古い歴史だと考えられているのが「古代シュメール人が高度な加工技術で金の装飾品を製造・利用していた」という説です。

未だ多くの謎が残されているシュメール文明は、メソポタミア地方南部にあるチグリス川とユーフラテス川の流域で、メソポタミア文明の基盤となる国家を構築したシュメール人が作り上げた文明のことです。そんなシュメール文明が栄えたのは、紀元前6000年といわれています。
当時、シュメール人は自分たちのことを“ウンサンギガ”と呼んでいましたが、その後にシュメール文化を征服して栄えたアッカド人によって“シュメール人”と呼ばれるようになりました。

このシュメール文明が栄えていた紀元前6000年頃にはすでに金が存在しており、生活に活用していたといわれています。

また、シュメール文明に残っている謎のひとつに「優れた天文知識」があります。
なぜ古代のシュメール人は優れた知識を持っていたのか現代でも謎のままですが、一説によると、シュメール人が信仰していた“アナンヌキ”と呼ばれる神様が宇宙人で、宇宙と交信することで優れた知識を得ていたのではないかといわれています。
このことから、「シュメール人が高度な加工技術を用いて金の装飾品を製造し、アナンヌキはその装飾品を求める代わりに優れた知識を与えていた」と考えている人もいるそうです。

この古代シュメール人と宇宙との交信についての謎は未だ解明されていませんが、シュメール文明ではすでに金の装飾品が製造されていたのは事実であるとされています。
このように、多くの謎が残されているのがシュメール文明なのです。

トラキア文明

紀元前5000〜3000年頃、現在のブルガリア地方周辺で生まれたのがトラキア文明です。周辺で栄えていたペルシャ文明・ギリシャ文明と交流しながら作った、トラキア人独自の文明となっています。
一説によると、トラキア文明に文字は存在せず戦ばかりを行っていたとされていますが、実は金の産地としても知られているのです。
そのため、トラキア文明ではすでに高度な金の精錬技術や加工技術があり、黄金の戦闘服を身に着けたり馬に金の装飾を施したりしていたそうです。
このようにさまざまな黄金製品が生まれていたことから、“黄金文明”と呼ばれています。

実際に1972年には、ブルガリア東部にあるヴァルナ集団墓地の遺跡から、王笏(おうしゃく)と呼ばれる杖や動物を型どったトリュンと呼ばれる杯(さかずき)、高度な装飾が施された金のイヤリング・指輪・ネックレスなどの装飾品といった金製品が数kgも発見されました。
トラキア人にとって、輝き続ける金製品は永遠の魂を象徴する存在だったと考えられているのです。

このほか、2004年にはトラキア王が使っていたとされる黄金の仮面も発見されています。黄金の仮面は重量672gもの荘厳なマスクで、世界的にみても貴重な出土品となっているのです。
このことから、トラキア文明ではすでに社会的身分を示す手段として金が用いられていたことが分かります。

古代エジプト文明

数ある古代文明のなかでも多くの方が知っているエジプト文明は、紀元前5000年頃に生まれたといわれています。
紀元前3000年頃にはエジプト王朝が統一するようになりますが、すでにこの時期には多くの金製品が作られていたそうです。
これまでに発見された古代エジプト遺跡から数多くの金製品が発見されているため、古代エジプト文明=金というイメージを持っている方もいるのではないでしょうか。

その中でも最も有名な出土品が、1922年に発見された「ツタンカーメン王の黄金のマスク」です。紀元前1300年頃に作られたこの黄金のマスクは“ネメス”と呼ばれるスタイルになっていて、顔だけでなく胸元まで覆う頭巾のような形をしています。現在の価値で換算すると300兆円にも上るといわれていることもあり、その豪華さが分かるでしょう。

さらに、ツタンカーメン王と金の歴史は黄金のマスクだけにとどまりません。ツタンカーメン王が眠っている棺には、110kgもの金があしらわれており非常に煌びやかな造りになっています。

古代エジプトで金製品がこんなにも重要な意味を持っていたのは、当時信仰していた太陽の神“ラー”が関係しているそうです。なぜなら、太陽信仰で金はラーの身体の一部とされていたため。この理由により、金は重要なものとして儀式や祭祀などに欠かせないものとして用いられていたのです。
実際に、古代エジプト時代の重要な儀式や祭祀などが行われていた場所では、金製品が見つかっています。

日本の金の歴史について

日本の金の歴史について

では、日本における金の歴史はどのようになっているのでしょうか。

金が発見されたのは8世紀

平安時代の歴史書「続日本紀」によれば、初めて日本で金が発見されたのは749年のこと。現在の宮城県桶谷町周辺で金が発見されたのが始まりといわれています。
実際に752年に建立された東大寺の大仏には、約150kgもの金メッキが用いられていることから、この時期にはすでに日本に金が存在していたといえるでしょう。

しかし、建立途中で金メッキに必要な金が不足したそうです。金を確保するために遣唐使の派遣が検討されていた頃、偶然にも国内で金が発見されました。発見された詳しい経緯については後述します。

金が使用された中尊寺

マルコポーロは「東方見聞録」で日本を“黄金の国ジパング”と呼んでいました。この理由となったのが、現在の岩手県にある中尊寺金色堂です。
東方見聞録には「宮殿の屋根はすべて黄金で、通路や床、窓でさえも黄金でできている」と記載されています。
実際に、中尊寺金色堂はいたるところに金箔が施されていますが、マルコポーロが日本に立ち寄ったことはなく、当時の日本が中国との貿易で砂金を用いていたことが関係しているといわれています。

日本最大の金脈「佐渡金山」

日本最大の金脈として知られている佐渡金山。金銀の鉱脈が発見されたのは江戸時代のことで、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が直轄領に指定しています。
これにより、金銀の発掘が行われてゴールドラッシュが始まり、江戸幕府の財政基盤の支えとなりました。
しかし、大量に発掘したことにより江戸時代中期から金の産出量が減少。明治政府は金銀採掘量を増やすために、1869年に西洋技術者を送り佐渡金山発掘を近代化させました。それと同時に、技術者を増やすための学校を開校し、さらなる基盤強化に努めます。この政策により、江戸時代後期には最盛期に並ぶほどの産出量まで回復しました。
1989年まで400年もの間、金銀採掘が行われています。

いつから始まった?金貨の歴史について

いつから始まった?金貨の歴史について

人間社会で「貨幣」という考えが用いられるようになったのは、古代文明の時代です。
古代メソポタミア文明や古代エジプト文明では、家畜や穀物などの物品を通貨として扱う「商品貨幣」が一般的でした。
しかしこの場合、大きな家畜も取引の場に持参する必要があります。
そこで、文明の発展とともに商品貨幣から、金銀銅を通貨として扱う「鋳造貨幣」へと変わっていきます。では、金銀銅などの金属を通貨として扱うようになったのはいつ頃なのでしょうか。

世界最古の「エレクトロン貨」

世界最古の金貨は、紀元前670年頃に現在のトルコ周辺で栄えていたリディア王国の「エレクトロン貨」といわれています。
このエレクトロン貨は、リディア王国のバクトーロス川で採れる砂金を用いて造られていました。
金貨の一種ではありますが、純金ではなくわずかに銀が含まれている自然金を加工した金貨です。

日本における金貨の歴史

日本最古の貨幣は「和同開珎」といわれています。
しかし厳密にいうと、和同開珎は上記でご紹介したエレクトロン貨とは異なり金貨ではありません。
日本での金貨の始まりは鎌倉時代といわれています。

鎌倉時代

日本での金貨の始まりは鎌倉時代ですが、当時はまだ金を加工した鋳造貨幣としては使われていませんでした。未加工の砂金を竹筒や袋に入れて持ち歩き、取引の際に重さを計って使っていたのです。

室町時代

室町時代には、明(当時の中国)から貨幣を輸入して使っていました。
ポルトガルやスペインと取引を行う南蛮貿易が盛んになると、貨幣の新しい精錬法が伝わります。
これにより全国の大名が鉱山開発を進めて日本国内でも金が産出されるようになりました。
その結果、多くの金判が流通するようになったのです。

安土桃山時代

安土桃山時代になると、豊臣秀吉によって金判が鋳造され経済の統一が行われます。
このときに鋳造されたのが、1枚あたり重さ165gもの天正大判です。大名や公家はこの大判を使って取引を行っていました。この天正大判は世界最大の金貨ともいわれています。

江戸時代

江戸時代には、徳川家康によって貨幣経済が発展しました。
徳川家康は金銀の貨幣を製造する「金座」「銀座」を作るだけでなく、「両」「分」「朱」という通貨単位を定めて金貨の品質・重量も統一しています。当時流通していた「慶長小判」は金の純度が86%で重さは18gでした。

さらに、徳川家康が貨幣の原料である金の採掘を進めるために、フィリピンから鉱山技師を招きます。これによって日本の産金精錬技術は高まり、より一層金の採掘量が増えて、上記でご紹介した通りゴールドラッシュが始まったのです。

明治時代

日本銀行(現在の中央銀行)が設置された明治時代には、通貨単位が現在の「円」になりました。
当時は、1円・5円・10円・20円などの単位の金貨が造られていて、形もこれまでの小判形から西洋式の通貨に合わせたコイン形へなっています。

さらに、明治4年には金融制度の整備も行われました。「新貨条例」が発布されたのを機に、国内で金本位制が敷かれます。同時に、香港の造幣局で用いていた設備を導入し、大阪に造幣局を設置。この造幣局は現在でも稼働していて、硬貨の製造や地金の分析、品位証明などが行われています。

大正時代

大正時代になると、金本位制が撤廃され不換紙幣が発行されるようになりました。
これにより、現物として価値のある金貨や銀貨の発行が停止。そして、金以外のアルミやニッケル、銅などの金属が貨幣の材料に用いられるようになり、現代の貨幣へとつながっていきます。

現在の金価格にも関わる!金相場の歴史について

これまでにご紹介したとおり、金は古代より特別な金属として扱われてきました。
現代では貨幣としては用いられていないものの、投資やコレクションなどの国際通貨として世界共通の価値を持っています。
現在の日本では、中央銀行が発行する紙幣を通貨とする管理通貨制度を採用していますが、昔は国が流通させる通貨を用いるという考えがなかったため、金で取引を行う金本位制が用いられていました。
しかし、時代を経て金本位制から現在の変動相場制へと変わっていきます。

金本位制

現在のような金相場が誕生する前は、イギリスで生まれた「金本位制」という制度が用いられていました。金本位制とは、金の通貨の価値を基準とするもの。
日本でも1897年に明治政府が取り入れており、その価値を純金1.5gあたり1円と定めていました。
しかし、その後の第一次世界大戦や世界大恐慌などの影響もあり、1977年に金本位制は終了しています。

変動相場制

金本位制の終了とともに誕生したのが、現在のような「変動相場制」です。
1973年には主要通貨の交換レートも変動相場制へと切り替えられ、国際的な金取引に欠かせないドル建て価格が変動相場になりました。
これにより、日本国内の金相場も変動性と変わっていきます。

金投資を始めるなら金の歴史も押さえておこう!

金には古い歴史があり、古代より重要な存在として重宝されてきたことが分かりました。
宗教上の儀式や祭祀に欠かせない存在だっただけではなく、文明の発展とともに貨幣としても扱われてきたのです。金の歴史を知ることは、今後の金の価値を見極める上で重要な情報となるでしょう。
これから金投資を始めるという方は、ぜひ金の歴史も知っておくのがおすすめです。

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